いじめって言葉をみるたびに反吐が出る
いじめはよくない。いじめはやめよう。そんな意見はもう見飽きたし、引くほど退屈な意見だ。いじめに関するトピックスが上がったら毎回言われるし、おとなは口先を揃えてみんな同じことしかいわない。僕は怒っている。
この無責任な発言をするほとんどの大人は自身が小さいころ、いじめの被害者でなかったばかりか、自分でいじめを行ったこともない人だからだ。お前らいじめに対してどれだけ真剣に向き合ったことがあるんだ。
なぜ「いじめ」が起こるのか。
この部分についてもっと深く考えるべきだ。僕の話を少し聞いてほしい。僕は小学校のころ、いわゆるいじめっ子だった。おそらくこれは自称いじめっ子(笑)ではない。気に入らないやつをハブにしたり、ふつうに殴ったり、上履きに画びょう入れたこともある。女の子に対してもグーパンし(マジでごめん)友達に歯で噛み付いて肩の肉を少し抉ったこともある。そのおかげで少年院に入れられる瀬戸際だったし、中学に進学するときは中学の先生たちの職員会議で問題児として取り上げられた(大人になってから聞いた)。なぜこんなことしたか。きっかけは以下の理由がある。
自分がしてることが「いじめ」だと思ってない
善悪の区別が欠陥してる。そんな言葉で片づけるのは簡単だけど現実はそんなに簡単じゃない。そう考える原因は家庭にある。うちの父はお母さんに対して暴力をふるうし、キレるなんてよくあるし、僕も普通になぐられた。子供は親の行動を見て育つとはよく言ったもので、こんなことが普通に行われる家庭で育つ僕は一歩外に出ても家で起こっている「普通」を行う。それが当たり前であるかのように、気に入らないものに対して暴力を振るう。
一般的な教師は暴力を振るった生徒に対して説教するが、説教された本人は自分が悪いことをしたと思ってないから、また同じことをしてしまう。そして何度か怒られているうちに先生に怒られるのも嫌だし、暴力はやめようと考えるようになる。が、そのときはもう遅く、そう考えるようになっても、僕が暴力を振るった過去は消えない。まわりが僕を見る目は「いじめっ子」になっている。
やめたくてもやめられない
友達にコミュニケーションの一環として触ろうとすると、友達は殴られた経験があるから無意識に、まるで今から殴られるかのようにビクっとする。僕は殴ろうとしてないのに。こうなってしまうと、もう歯止めがきかない。家庭でのストレス、まわりからのレッテルが拍車をかけて、殴ろうとしていなかった手はスピードを増して、殴られるリアクションしてるやつの体に届く。グーで。心と体は全然べつの動きをしてる。
こうしていじめを続けると一定数の味方がつく。いじめを行うことでしか友達をつくれなくなる。そして孤独はいやだから、ほんとはやりたくもないいじめを続けなければならない状況ができあがる。
親の背中からはじまり、家庭のストレス、まわりの目、孤独こんな理由でいじめはやめられなくなる。いじめを行ってる本人はもういじめることでしか自分の存在がこの世からなくなってしまうかのように不安だ。まわりの大人が「いじめ」という言葉でその子を表現してしまうと、家庭に居場所がないその子は、そんな言葉でもその場所にいたいとおもってしまう。
大人の僕たちができること
いじめを表現する時に語られるのは「いじめっ子」「いじめられっ子」の二人か、多くてそこに「傍観者」が加わった三役だ。その三役しかいない状況で「誰が悪い」って僕たち大人は意見を言うけど、そんな話は絶対しないで欲しい。大人は自分に責任がないかのように話をするけど、いじめが起きるその原因を作った悪の根源は僕たち大人だ。その三役でいじめを表現するメディア、そこに乗って持論を展開する無責任な僕たちが自分の近くにいる大切な人にもっと真剣に向き合うべきだ。安易に「いじめはよくない」っていう言葉こそ、いじめをやめさせるきっかけを奪っている。右からきたその言葉をSNSで拡散してないで、もっとやるべきことがあるだろ?
足りない頭を使って「いじめ」がどうこうと言ってる思考停止した無責任な大人に伝えたい。
そんな投稿するなら奥さんに「今日もごはん美味しいね」とか「愛してるよ」とか言おう。持論を押し付けるんじゃなくて子供の話をしっかり聞こう。人に優しく接することは、いじめをすることより難しくない。
P.S.
最後になったけど誤解しないで欲しいのは、僕はいじめを擁護する訳でもないし、もちろんよくないことだと思ってる。いじめに至る理由はもっとたくさんあると思う。ただこの記事でいじめっ子側の心理が少しでも伝わればと思って殴り書きだけど投稿しました。最後までお読みいただきありがとうございました。
コンサルティング会社 → 新聞社でweb制作。写真とエンジニアのスキルを使用してプロジェクトに従事。